沖縄県の歴史_本土の人々の努力

戦後、日本の東南諸島は占領軍の外国領土になってしまっていたので、本土から手出しができなかった状態であった。本土との連絡もままならない状態で、本土は本土で多勢の餓死者も出てしまいながらも、焦土からの復興に追われていた。何年か後に、順次、占領軍から領土返還があった。そして、最後に返還されたのが沖縄である。

沖縄は、日本人が、日本男児が多勢戦争に出払って残り僅かの中、選りすぐりの指導者と戦闘員を送り込んで死守しようとした領土だ。結果は、大日本帝国軍の兵隊が最後まで死守しようと本気で守った為、アメリカ軍も大打撃だったが、アメリカ軍の軍事物資と人数が豊富だった為、日本は押し切られてしまった。沖縄を死守した海軍の大田中将から玉砕直前に沖縄県民の実情を長文打電して来られ、そのくくりに 「沖縄県民 斯ク戦えヘリ 県民ニ対シ後生特別ノゴ高配ヲ賜ラン事ヲ」 とメッセージを残して亡くなっている。

1965年、佐藤栄作首相に話を持ちかけた、元政務次官の方の言葉:
「戦後20年、歴代首相は誰一人、沖縄に行っていません。あなたが行って「永い間苦労をかけたが、もう少し待ってくれ」と慰めて下さいと言ったんです。すると首相は「それをやれば、沖縄に内閣の命運を賭けることになるぞ」と言いました。県民が祖国に復帰できるか否かは、内閣の命運を賭ける値打ちがありますと言いますと、暫く考えていたが「君が案内しろ」と言ってくれました。」

1965年8月19日、日本国首相の戦後初の沖縄訪問。那覇空港での佐藤首相の言葉:
「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、日本の戦後は終わらない」

さて、日本では、占領下から本土が開放された日を通常は国権復帰の日とするらしいところ、沖縄復帰の1975年7月15日を日本国全土復帰の日と思っている為、GHQからの開放日は特に祝っていません。私をはじめ、知らない人も多いです。

沖縄返還の日米協議は1968年から始まり、1969年11月日米首脳協議で3年後の返還合意。
1970年1月、第3次佐藤内閣で総理府総務長官に任命された元政務次官は、「役不足だから」と断ったが、佐藤首相から「沖縄をやるんだよ」と言われ、「沖縄のことでノーと言っちゃあ、日本の政治家じゃあないですなあ」と受諾。

そして、昭和天皇が、ずっとずっと心に留められていて、昭和天皇にお話しに行かれた議員の方達によく「沖縄はどうかね?」と聞かれていたそうです。そして、ずっと沖縄に行きたいと仰っていました。けれど、沖縄の方達の気持ちや色々な危険の可能性から、側近の方達に止められて、代わりに当時の皇太子と皇太子妃(今の天皇と皇后)が何度か足を運ばれました。

米軍軍政下、行幸が適わなかった沖縄に、1987年、秋の国民体育大会でようやく昭和天皇の御訪問の機会ができたが、その直前、病に倒れられた。手術の3日ほど後、昭和天皇は「もうだめか」と問われた。

昭和天皇の詠まれた御製(天皇の御歌)。

「思はざる 病となりぬ 沖縄を たづねて果さむ つとめありしを」

このように、天皇家をはじめ、心ある政治家達や民間人などが、心を込めて接してきていた沖縄で、全般的には教科書などでも学校でも詳しい話が制御されていた為にそれ程でも無かったとしても、忘れずに心に掛け続けてそれを行動に表してきていた方達が多勢居ます。

なので、沖縄の方達自身の意見もありますが、日本国としてはこれからもずっと日本の領土として認定しています。
基地問題で負担を掛け続けていますが、戦時中は本土も焦土と化した所も多々あり、基地所在地も在ります。
最善策が採られる事を願いたいです。