≪日本国の国際連盟への提案「各国は総て平等という主義に則り」≫

牧野大使の試み -------------------

約3000万人の死傷者を出した第一次世界大戦。足掛け5年に渡る戦い。
1918年終結
1919年、フランス・パリ講和条約。大戦後の世界の枠組みを決める。日本も出席を求められる。アメリカ大統領ウィルソンは、其れまでの歴史になかった新しい提案、世界の平和を構築する為の国際連盟設立を提案。

日本国は、アメリカのウィルソン大統領の提案で設立された国際連盟で、牧野大使は、「『各国は総て平等という主義にのっとり」という一文を国際連盟規約の前文に入れたい」「この案は日本国民の揺るぎない意志である」などを提案する事にした。その案は、牧野が、日本政府の訓令の中の一節「国際連盟においては黄色人種に対する人種的偏見のために日本が不利に陥る事のないようにせよ」という言葉からヒントを得て考え出した。
牧野大使は、反対されるのを覚悟で、ウィルソン大統領の宿舎に直接かけあって提案した所、この案を歓迎し、国際連盟の規約に盛り込む事に賛成してくれた。そこで、牧野は、日本政府の許諾も得る為に本国に連絡し、この提案を日本国の提案としてする事に許可を得た。当時の新聞の見出し「人種平等提議 日本の委員の主張」。

しかし、採決当日、ウィルソン大統領が別の用事で不在。代理のイギリスの全権大使ロバート・セシルが議長を務め、人種差別廃止提案に猛反対した。国際連盟の規約に入れるのはとんでもないと。当時、国際連盟の殆どの国が植民地支配国であった。賛成は、ブラジル、ルーマニアチェコ・スロバキアの3ヶ国のみ。その他のイギリス、フランスなどは反対、その他は保留。その案は却下された。
しかし、大国に虐げられた国々の期待が日本に掛かっている事を知った牧野は、再び提案してみる事を決意。

1919年4月11日午後8時30分、国際連盟委員会最終会議。参加者17名。アメリカから戻ったウィルソン大統領が議長となる。牧野はもう一度、人種差別撤廃の提案の検討を申請。「国際連盟の主旨を謡う前文の中に、『各国は全て平等という主義にのっとり』の一文を入れる」事を再提案。イギリスのロバート・セシルは「この修正案を受け入れれば、大英帝国の様々な法律に違反する事になる」と猛反対。日本代表委員、珍田捨己がただちに反論「修正案は、あくまで理念をうたうものであってその国の内政における法律的規制を求めるものではない。にも関らず、拒否しようというのは、イギリスが他の国を平等と見ていない証拠になる」と発言。会議の流れが変った。

まず、イタリア首相オルランドが「この修正案が提起された以上、採択する以外に解決策はない」と賛成を表明。フランス代表ブルジョア大使「日本案が示しているのは、正義という大原則である。拒否するのは不可能だ。」

そして、採決は、アメリカのウィルソン大統領「民族平等の原則は、既に連盟の基本的性格となって居る。今更、規約の前文に記入するまでもないのではないか。」
アメリカでは、日本の人種差別廃止提案に対する反対が強まっていた。アメリカではまだまだ黒色人種問題が大きな課題となっていた時代で在った。国内世論を気にしたウィルソン大統領は、ここで日本案に賛成するわけに行かなかった。

牧野は更に念を押した「この案は日本国民の揺るぎない意志である。採決を。」。
ウィルソン大統領は採決を採った。
賛成:フランス、イタリア、中国、ブラジル、ルーマニアチェコ・スロバキア、日本など11票。反対または保留:イギリス、ポーランド、など議長ウィルソンを除いて5票。

そして、ウィルソン大統領の決定は「日本の提案は成立しなかった。全会一致の賛成が得られなかったので、採択されない。」

牧野は更に押した「これまでの会議は全て多数決で決めてきたではないか。なのに、なぜ今回に限って全会一致を必要とするのか」

ウィルソン大統領は平然として「このような重大な問題は、全会一致でなくてはならない」と、有無を言わせぬ態度で否決を宣言。各国は、その圧力に沈黙状態となった。

そそくさと次の議題に移ろうとしたウィルソン大統領に、牧野は其れを遮って提案した。「日本案に対し、過半数の賛成票が在った事を、議事録に記述するよう希望する」。
日本の精一杯の抗議だった。

以上、NHK番組引用 -------------------------

日本には、歴代、人権の平等・保護、自立独立国家の構築、その為の教育・産業振興・軍備・治水感慨工事・街づくり・医療システム導入普及による衛生管理・警察機構による治安維持など、昔から、世界中から学び、その技術や情報を生かして他国に貢献しようと努力を重ねてきた歴史が在ります。

第二次世界大戦でも、大日本帝国は「人権の確保、アジア諸国の植民地支配からの開放、独立国家として各国自立」を大義に掲げて、出かけました。その為、国際法の遵守をしながらの戦争となりました。日本ほど、国際法を遵守してきていた国は、他に余り例を見ないと思われます。

戦中から、共産・社会主義工作員などが、天皇やその側近などのまわりに居て、昭和天皇の戦争回避・犠牲者を極力少なくする為の意見が通らず、近江文麿も共産主義者に洗脳されていたかもしれないと後に昭和天皇に伝えていた程、大勢居ました。

それは、日本だけではなく、ドイツでもアメリカでも大勢の社会主義共産主義のスパイ・破壊・扇動・宣伝・情報工作員が大勢居た様で、ルーズベルト大統領の周りには300名ものコミンテルン工作員が居たと後に発覚しています。

それが、第二次世界大戦後、日本でも日本共産党として派手な行動を起こし、飛行機を盗んだり、暴動を起こしたり、情報を押さえ込んだりしてきていました。

日本が本来目指してきていた国家の在り方、国民の在り方等が大きく破壊されてきたのが、戦後の日本の歴史です。

でも、日本人の根本的な資質とか嗜好性とかは、やはりなんとなく受け継がれてきていて、日本人らしさとか、子供達に伝えようとすれば伝わるようです。

先人の尊敬できる功績がたくさん在る日本です。
自然との調和と共存を大事にしながら過ごして来ていた日本人の先人、そして、他の国々にもそのような民族は大勢いらっしゃいます。日本人の先輩が伝え、日本人が見失ってしまったものを保持してくれている台湾や他の国々の方達も大勢いらっしゃいます。
ぜひ、多くの地球の先人達の尊敬できる功績をなるべく多く知ってもらって、日本人の後輩である次の世代の日本人に引き継いでいきたいものです。本来の日本の心を理解してくれる人達はそんなに少なくないような気がします。日本の先人がやってきた尊敬できる事・技術に対して、謙虚な気持ちで、誇りを持って、更に次の世代に伝えて行ってくれればと願います。そして、謙虚な気持ちで、すべての国の人達からも学ぶ姿勢をいつまでも忘れないで居てくれればと、心から願ってやみません。

沖縄県の歴史_本土の人々の努力

戦後、日本の東南諸島は占領軍の外国領土になってしまっていたので、本土から手出しができなかった状態であった。本土との連絡もままならない状態で、本土は本土で多勢の餓死者も出てしまいながらも、焦土からの復興に追われていた。何年か後に、順次、占領軍から領土返還があった。そして、最後に返還されたのが沖縄である。

沖縄は、日本人が、日本男児が多勢戦争に出払って残り僅かの中、選りすぐりの指導者と戦闘員を送り込んで死守しようとした領土だ。結果は、大日本帝国軍の兵隊が最後まで死守しようと本気で守った為、アメリカ軍も大打撃だったが、アメリカ軍の軍事物資と人数が豊富だった為、日本は押し切られてしまった。沖縄を死守した海軍の大田中将から玉砕直前に沖縄県民の実情を長文打電して来られ、そのくくりに 「沖縄県民 斯ク戦えヘリ 県民ニ対シ後生特別ノゴ高配ヲ賜ラン事ヲ」 とメッセージを残して亡くなっている。

1965年、佐藤栄作首相に話を持ちかけた、元政務次官の方の言葉:
「戦後20年、歴代首相は誰一人、沖縄に行っていません。あなたが行って「永い間苦労をかけたが、もう少し待ってくれ」と慰めて下さいと言ったんです。すると首相は「それをやれば、沖縄に内閣の命運を賭けることになるぞ」と言いました。県民が祖国に復帰できるか否かは、内閣の命運を賭ける値打ちがありますと言いますと、暫く考えていたが「君が案内しろ」と言ってくれました。」

1965年8月19日、日本国首相の戦後初の沖縄訪問。那覇空港での佐藤首相の言葉:
「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、日本の戦後は終わらない」

さて、日本では、占領下から本土が開放された日を通常は国権復帰の日とするらしいところ、沖縄復帰の1975年7月15日を日本国全土復帰の日と思っている為、GHQからの開放日は特に祝っていません。私をはじめ、知らない人も多いです。

沖縄返還の日米協議は1968年から始まり、1969年11月日米首脳協議で3年後の返還合意。
1970年1月、第3次佐藤内閣で総理府総務長官に任命された元政務次官は、「役不足だから」と断ったが、佐藤首相から「沖縄をやるんだよ」と言われ、「沖縄のことでノーと言っちゃあ、日本の政治家じゃあないですなあ」と受諾。

そして、昭和天皇が、ずっとずっと心に留められていて、昭和天皇にお話しに行かれた議員の方達によく「沖縄はどうかね?」と聞かれていたそうです。そして、ずっと沖縄に行きたいと仰っていました。けれど、沖縄の方達の気持ちや色々な危険の可能性から、側近の方達に止められて、代わりに当時の皇太子と皇太子妃(今の天皇と皇后)が何度か足を運ばれました。

米軍軍政下、行幸が適わなかった沖縄に、1987年、秋の国民体育大会でようやく昭和天皇の御訪問の機会ができたが、その直前、病に倒れられた。手術の3日ほど後、昭和天皇は「もうだめか」と問われた。

昭和天皇の詠まれた御製(天皇の御歌)。

「思はざる 病となりぬ 沖縄を たづねて果さむ つとめありしを」

このように、天皇家をはじめ、心ある政治家達や民間人などが、心を込めて接してきていた沖縄で、全般的には教科書などでも学校でも詳しい話が制御されていた為にそれ程でも無かったとしても、忘れずに心に掛け続けてそれを行動に表してきていた方達が多勢居ます。

なので、沖縄の方達自身の意見もありますが、日本国としてはこれからもずっと日本の領土として認定しています。
基地問題で負担を掛け続けていますが、戦時中は本土も焦土と化した所も多々あり、基地所在地も在ります。
最善策が採られる事を願いたいです。

パールハーバーの真実と虚構

When time shall have softened passion and prejudice,
When reason shall have stripped the mask from misrepresentation,
then justice, holding evenly her scales,
will require much of past censure and praise to change places.

時が熱狂と偏見とをやわらげた暁には
また理性が虚偽からその仮面を剥ぎ取った暁には
その時こそ正義の女神はその秤を平衡に保ちながら
過去の賞罰の多くに
そのところを変えることを要求するであろう

ラダ・ビノード・パール
法学教授・国際連合国際法委員会委員長
極東軍事裁判判事の判決文の締めくくりの文

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昨日は、時の記念日です。

そして (・・? 、なんだか、寅年まで引き伸ばされて、そしてToraToraToraの発表でも。。。

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ToraToraToraは、米中英国(?3国は不確実です)の暗号です。

大日本帝国軍の暗号ではありません。

日本にトラは居ません。

アメリカ・flyingtigers、イギリス・トラファルガー、中国・飛虎(ひとら…大日本帝国と組んでいた、なんかに似ています。)。

他にも大韓帝国では虎のことを「ホランイ」と言いそれもFlyingに音が類似。

ちなみに、陸上競技でフライイングというと、合図前にスタートを切っているファウルです。自分達の先制攻撃を、大日本帝国に責任を転嫁する為のもの。

12月8日は、1941年以前にローマ教皇庁に「聖母の無原罪の宿りの祝日」として認定されている。つまり、「罪が無いのにキリスト(一部では罪逃れの為の身代りとして認識されている)を宿った」日付。アメリカ現地時間では12月7日。そして、12月8日はジョン・レノンさんの命日でもあります。日本人と結婚していたのをアメリカ・朝鮮・中国系の人などを使って引き離したのに、再び日本人と縁を戻してしまい、戦争犯罪などを日本のせいにして宣伝しているのに、日本の味方に付かれてはその後ろに居る世界中の大勢の人々が動いてしまうので困る、と言った理由が原因だとも言われています。そこで、在日の共産社会主義者関連の人が近付いていたとも言われています。

そして、当時ルーズベルトの周りには共産党コミンテルン工作員がかなりな人数居たと後に発覚している。開戦直前のルーズベルト昭和天皇の戦争突入回避の為の書簡のやり取りに邪魔が入り、昭和天皇ルーズベルトからの書簡を受け取ったのは、真珠湾攻撃開始時間の直前だった。当時の日本も共産党コミンテルン工作員が大勢居て、戦争回避・犠牲者をなるべく最少に抑えるための昭和天皇の発言が通らなかったそうです。その工作員達が戦後も、日本の情報を押さえ込んで来ていました。

真珠湾攻撃自体が虚構だ」と事件をよく知っている人が言っていましたが、「廃棄処分してもよい戦艦が2隻置いてあっただけ」で、大日本帝国軍に入り込んだ工作員の工作で、アメリカ・中国などの工作員と連絡しあって行われたようです。

イギリスのチャーチル真珠湾攻撃の速報を聞いて「勝った!」と叫んだそうです。

そして、戦後に破壊工作員であるコミンテルン狩りをしなくてはいけなかったハリウッドで、2007年南京事件に関する虚構を集めた宣伝映画が10本以上も発表されたそうです。南京事件70周年です。

蒋介石との呼び方は日本だけで、台湾などそれ以外のアジアでは蒋中正と呼ばれている。その蒋中正は、婦人の宋美齢が、アメリ連邦議会とハリウッド、大学などで、反日講演をやって大反響を受けた。そのせいで、アジアの国々の国民が、人権・独立・自立を懸けて戦ってきていた戦争に負けてしまい、その後も落ち着かない状況になってしまった。その蒋介石援護工作員が、アメリカ・中国・日本・その他に入り込み、戦後もずっと蒋中正の犯罪を日本のせいにしてきていた続きをやってきていた。なので、蒋中正は、台湾の人達の日本人に対する感情を悪化させる為、台湾の方たちを大勢殺害したり、迫害したり、日本からの戦争賠償金で大日本帝国に貯金していた分の支払いなどをしてもらう機会などを奪いました。蒋介石宋美齢反日活動は、今日の日本でもまだ尾を引いている問題となっています。

さて、コミンテルン等の工作していた「移動する年表」では1927年に南京でアメリカ・イギリス・中国の軍隊が衝突、英米の軍艦から南京市街に大砲を発砲、市民が大勢亡くなっています。

それを、『平凡社 世界百科事典1979発行』、野原四郎氏のコメントで「1927年3月24日イギリス、アメリカの軍艦が南京を砲撃した事件。その日、国民革命軍に追われた北方軍閥の軍隊が南京撤退にさいして,列強居留民,領事館を略奪したのを口実に城内を砲撃し,中国軍民死傷2,000人,家屋の破壊無数という損害を与えた。」、1937年「12月13日に日本軍が南京に入城し,略奪暴行の限りをつくし,市民30万人を虐殺した事件。」とあります。

大日本帝国軍は極力国際法に則って戦争をする事にも力を入れていた為、どの人に聞いてもありえないと言って居ます。更に私自身、南京事件を知る人から戦後20年位の頃に「南京事件は中国の革命が在って、その中で中国の軍隊がやったことを日本のせいにされている」とも聞いています。
真珠湾攻撃当時のアメリカ議会でその時点で既に問題視されていたようです。今でもアメリカでは、犯罪工作員と取締り員とで遣り合っています。日本でも世界中でもそうですが。

O-range計画といって、アメリカで1800年代の終わり頃に発案され、改定を重ねて実行に移された「全世界王家に対する工作」があります。それは、レインボー作戦やカラーコード作戦等とも言われている作戦の一部です。カラフル自慢で、会員以外の人々を「死んでいる・モノトーンだ」と見下しているのが特徴です。彼らも、1800年代終わりから第2次世界大戦にかけて特にアジア地域での王家狙い工作が目立ちます。朝鮮王朝も、アメリカは日本との合併を勧め、合併の都合で日本の王家と並列で組み込まれる形をとらざるを得ませんでした。日本の配慮が無ければ、他国の王朝なので他の王朝同様跡形もなくなってしまっていたかもしれません。大韓民国では2009年に李朝の末裔の方が残っていらして、再び王家として一部の勢力に認定されたそうです。

で、上記のようないろいろな理由で、私も、何らかの裏工作の犯罪組織が全世界ネットで働いて、その結果、最近、全世界ネットでアメリカ・欧米諸国・日本等の全人類の人権尊重推進社会の先進国という事になっている国々の弱体化を進めている勢力が、影で罪逃れをしながら実権を握ろうとしている。。。そのシナリオの発端の一つが、ToraToraToraだったと思われるのです。

と、再び、まとめ途中ですが、時の記念日なので、取り敢えずUP (^_^)v