『南京事件のキーワード』

私は、昭和40年代に通りすがりの男性から、「南京事件は、中国国内の革命が在って、中国の軍隊がやった事を日本のせいにされている」と聞いていました。そして、最近、いろいろ調べていくに従って、やはり、あの男性の言っていた事は本当だったと確信が高まってきています。以下、一部御参照を。

素人調べで、まだまだ途中段階ですし、失礼等がありましたらその点、御了承くださいませ。

1.1927年南京事件にて、中国国民軍による北伐で大暴動。
『蒋中正(介石)の排外主義』によって、欧米諸国人も日本人も、虐殺された人達在り。余りの暴動に、米・英の軍艦から城内に発砲。多くの市民が亡くなっている。罪逃れ・すり替え。 → 2007年の10本以上の南京映画作成に出資した国は、中国・アメリカ・イギリスなど。
この少し前の、「蒋中正(介石)の上海事変1927」でも、外国人も狙われ、大日本帝国の国民も虐殺されたりしている。

2.1927年南京事件を1937年に移動。
崇善寺の埋葬記録は、民国27年は、本当は10年前の「1927年3月24日南京事件」。『4月の埋葬数に注目!10万人以上』南京は、春以降は気温が高めの地域。

<参考資料:Youtube>第二次上海事変における中国人による日本人捕虜の残虐処刑 (1996 CNN)
http://www.youtube.com/watch?v=Nr_eThF6I00
いや、南京大虐殺はしていませんよ。動画を検索してみてください。日本の軍隊の規律正しさが分かると思う。日本の南京入場は冬です! 証拠写真といわれるものはすべて夏のものばかり! 日本は無実です。

1927→1937な証明の一つ! 1927年南京事件は3月24日。南京の気候は、
<参照:ネット情報>「南京の平均気温」3月 最低 5°C 最高 14°C、4月 最低 11°C 最高 20°C<参照終り>
更に、四月に入って遺体が痛んで来て居る、等の埋葬関連記録も在り。

3.1927年に南京城内に軍艦から発砲したアメリカ・イギリス両国の軍艦が、1937年に大日本帝国海軍の戦闘機によって爆撃されてしまった。らしい。中国の偽装機のような気もする。4名が亡くなり、そのうちにはイタリアの記者も入っていた。日英の戦争回避密談に来て居たイギリスの使者も上海で爆撃され重傷を負われ、戦争回避会談ができずに、戦争突入。蒋中正(介石)の元奥様で蒋経国の御母堂も戦闘機に爆撃されて亡くなり(三浦和義事件みたい…)、そしてイタリア記者…。大日本帝国の海軍にも大勢コミンテルンその他の工作員が居たので、そこからの工作かもしれないが、日米開戦前の戦時中の雑誌などに、撃ち落として見れば中からアメリカ兵が出て来たとの情報も在ります。戦後、GHQ朝鮮人の都合悪い書物の焚書の中になければ、実物が在るかも知れませんが…。


4.遺体の共通性。「針金で手を縛られて、水の中へ」。
西康路の近くの寂しい野原に、「針金で手を縛られ」「機関銃で撃たれ」「沼の中に投げ込まれ」ていた死体が発見された。
蒋中正(介石)が、後に、台湾人を殺害した時に、「後ろ手に針金で手を縛り(その状態を『ちまき』と呼んでいたらしい。ついでに防疫給水部隊が丸腰に近かった状態を『丸太』と呼んでいたのではないかと、「私からの」疑いもかかっている。)、海に放り込んで殺害した」方法に、酷似している。ちなみに、大日本帝国軍は、捕虜を捕縛するのに、紐を使っている写真は見かけるが、針金は使ったかどうだか判らない。なにせ、「アジアミクロネシアの植民地支配からの解放」の大義を掲げた大日本帝国軍だったが、東京裁判等での列強の一部の方々の判断では「物資が不足していたので、植民地支配に出かけた」らしいので、資源不足で食器や鍋や寺の鐘や学校の二宮金次郎像や渋谷のハチ公までもが出兵したくらいだから。


5.下関辺りでは、国民軍が退却時に、自国軍を大量に虐殺して居る。

<『「南京虐殺」への大疑問』松村俊夫(展転社)、Internetなど>


6.計画的在留敗残兵は、便衣兵として、南京で、残虐行為を日本人の仕業にする作業をしていた。
『京都師団関係資料集』の12月14日の大日本帝国軍の歩兵の手記より、<引用開始>その中(引用者註・国際安全区)にある大きな建物の中に数百名の敗残兵が軍服を脱いで便服と着替えつつあるところを第二小隊の前原伍長等が見つけた。それというので飛び込んでみると、何のそうそうたる敗残兵だ。傍らには小銃、拳銃、青龍刀など兵器が山ほど積んであるではないか。軍服の儘の者もあれば、早くも支那服に着替えている者もあり また軍服を着て上に支那服を纏って居る者もあるが、何れも事項はずれのものや不釣合いの物を着て居るので、俄あつらへであることが一目で解った。<引用終了>、そのほか、(^_^)≪編集中≫(^_^)/
<『「南京虐殺」への大疑問』松村俊夫(展転社)、Internetなど>


7.蒋中正(介石)は、『太陽王』を目指した。『サンセット計画』
華やかで煌びやかな真昼の太陽の象徴である『晴天白日旗』を掲げ、中国制覇を目指した蒋中正(介石)。彼は、派手を好み、上層階級志向が強かったようだ。また、各方面からバックアップを得て、どの軍団とも同盟関係に在った事があり、その中に工作員を入れ込む事も容易だったようだ。そして、『サンライズ・サンセット計画』(おそらく、日本の国旗が日の出入り時の太陽と見立てての事。太陽の実体は、「オレンジ色」のような気がしますが 。)を実行。1937年のレトリックは、『19=仇』『37=サンセット』である。
<様々な本、Internet、子供軍隊(日本では、戦後、ガム チョコレート・特権などを貰って米軍やGHQの工作の手先として工作活動するのを得意としていた、当時の子供達のネットワークが存在します。)、私が子供の頃から通りすがりの人々から伺った事。昔は、戦争の話を聞かせてくれる人々が大勢いました。>

8.白崇禧 氏は、蒋中正(介石)軍の参謀総長
南京で、蒋中正(介石)の元に居て、12月7日に蒋中正(介石)が退城する時に、一緒に退城したという事になっている。
(2010年現在、民主党議員:白真薫 氏(元朝鮮人と言われている)の先祖であられる富田直亮 少将(2010年現在、民主党議員:白真薫 氏(元朝鮮人と言われている)の先祖であられる富田直亮 少将(中国名:白鴻亮)らが、戦後、日本から、蒋中正軍軍事顧問「白団」として参加。関係者か?「富田メモ」の方との関係は?)
<『「南京事件」の総括』田中正明小学館)、Internetなど>


9. <引用開始>陥落前の南京
はじめ南京城市民は、もしも日本軍さえ入城してくれるなら、中国軍の退却のドサクサにまぎれた暴行掠奪も終るだろう、と期待したものです。ところが<引用終了>
つまり、この内容では、大日本帝国軍は、それ以外の所では、つまり、この内容では、大日本帝国軍は、それ以外の所では、通常は、略奪暴行が見られず、行けば治安が安定する軍として認識されていた現実、暴行略奪を行っていない評判が、南京市民に行き渡っていた。ということですかね? GHQの人間が作った、大日本帝国軍人の悪評を目的とした文章だけれど、真実も含まれている。と、私は鑑定しました(^_^)/。ちなみに、<ところが>の後は、大日本帝国軍の悪事として記されていますが、現実には、中国軍による虐殺シーンです。パターンが中国そのもの。
<『GHQ作成の情報操作書「真相箱」の呪縛を解く』桜井よしこ小学館文庫)P396_5行目〜より>

10.宋財閥は、『聖書の印刷・出版』で財閥に成り上がった。
宋美齢の父である宋耀如(そうようじょ:チャールズ・ジョーンズ・スーン::チャーリー・スーン宋美齢の父親)は、上海疎開で南メソジスト教会の牧師として伝道活動を行い、同じ信徒であった倪桂珍と結婚。
参照:<伊藤純/伊藤真『宋姉妹』(角川文庫)>

11.12月8日『聖母マリアの無原罪の宿りの祝日』、8月15日『聖母マリアの被昇天の祝日』